ザルツブルグ、ウイーン、プラハ旅日記

2006 Apr 29〜May 7

6日目 May4 プラハの夜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プラハに到着です。古い町並み・建物が数多く残る街で塔が多くあることから「百塔の街」とも呼ばれる世界遺産の町ですが、、、ホテルはとてもモダンでした。ウイーンよりぐぐっと親しみやすい、懐かしい、大好きな町です。ホテルで夕食した後はさっそくプラハの町を歩いてきました。

チェコの歴史1 モラヴィア王国:5,6世紀頃からスラブ人がエルベ川より東に住み着いていたといわれていますが、スラブ人最初の国家建設は9世紀のモラヴィア王国(プラハの東)であった。モラヴィアはその西隣にあった東フランク王国(ドイツにあたる)と戦火を交えては負け、半ば支配されていた。当初からキリスト教国であったが、フランク王国のパッサウ司教の監督下におかれており、一人前の司教を持った国になるためローマに司教派遣を依頼するも断られたため、ビザンチン帝国に司教の派遣を依頼しやってきたのがギリシア人の兄弟『聖キリルと聖メトディウス』です。彼らは経典をスラブ語に翻訳したり独立した教会を作る事に尽くしたが、モラヴィア自体が906年マジャール人(現ハンガリー)により滅ぼされてしまう。

チェコの歴史2 チェコ王国の成立:ェコ最初の国家は10世紀よりプシェミスル家が統治していたが、間接的には東フランク王国、911年からドイツ王国、962年からは神聖ローマ帝国の支配を受け、国王とはなのらずチェコ大公と呼ばれていた。またキリスト教もヴァーツラフ1世は東フランク王国から受け入れ、聖ヴィートの遺骨を譲り受け教会を立てた。973年プラハ司教座が成立したが大司教座昇格はならなかった。1192年オタカル1世の時代、ドイツでシュタウフェン家とヴェルフェン家で争いがあった時に、シュタウフェン家のに協力し、勝利を収め皇帝になった御礼に、「チェコの君主が今後は国王の称号を名乗ること、チェコ王の選出はチェコ国内で任命する権利を持つこと、チェコ王はチェコ国内の司教の任命する権利も持つこと」が明文化され、チェコの地位は向上しオーストリアもその勢力にはいろうとしていた。

         

アメリカンスタイルのホテルです。

フロントも明るい雰囲気。

お部屋です。
 

小さいけどソファが気に入りました。

食事はスープと

 

お肉は普通でしたが添えものが
チェコの定番の2品

クネドリーキ(左)
お餅のような歯ざわりのパン
(小麦粉、卵黄、イーストなど混ぜて
茹でたもの)あまり美味しいとは、、、

ザワークラウト(手前)
キャベツを細かく切って、酢付けに
したもの。

ホテルの玄関口

ホテルの隣はシネコンプレックス、
日本より早くMi3をやっていました。

 

プラハの路面電車です。

右手地下鉄駅から地下鉄に乗りました。
1時間で20コロナ、24時間で80コロナ。

降りる駅をひとつ手前で降りてしまい、
そこから路面電車で反対方向に行って
しまったりしましたが、無事川岸に到着。

最初に見た時は言葉になりませんでした。
絶景です。

手前の駅で降りたおかげで、カレル橋
まで川岸の散歩も出来たわけなので、
結果的にはラッキーでした。

 

国民劇場に到着です。

更に歩いてなにやら彫像が。

うーん


もうすぐカレル橋です。

皆さんプラハ城をうっとり見とれています。

カレル橋の入り口の橋門塔です。
1380年にできたとのこと

中央は聖ヴィート、,左はカレル4世、
右はその息子のヴァーツラフ4世です。
国王はどちらも王冠をかぶり、王笏を
右手に、宝珠を左手に持っています。

カレル4世は少し首をかしげて愛嬌の
あるポーズをとっており、チェコの人に
とって親しみやすい存在であったことが
うかがわれます。

カレル4世です。チェコで一番有名な
偉人ではないでしょうか?

カレル橋の両脇には30体の彫像が
並んでいますが、十字架もひとつあり。

実はここで公開の処刑が行われたから
だという。首を切られる運命の人間が、
死の前に十字架に跪いて、最後の祈り
を捧げた場所だったのだ。

両側は聖マリアと聖ヨハネ像

ピエタ像

十字架の対側にあります。
この2つの像のところだけ
処刑をするため橋が広くなっています。

ピエタとはイタリア語で「悲哀」という
意味ですが、十字架上で息絶えて
降ろされた我が子イエスを抱く悲しみ
の聖母マリアをモチーフとする作品を、
一般にそのように呼ぶならわしに
なっています。

ミケランジェロのピエタ像は有名です。

おおっ!

向こう岸の橋塔に到着。
右はプラハ城、
左は聖ミクラーシュ教会