ザルツブルグ、ウイーン、プラハ旅日記

2006 Apr 29〜May 7

7日目 May5 プラハ 2 聖ヴィート大聖堂、プラハ城内

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖ヴィーと大聖堂の中はプラハ大司教座がおかれただけにとても広々として、荘厳な空間でした。

チェコの歴史5 改革者ヤン・フスカレル4世のあとを継いだ、長子のヴァーツラフ4世(ボヘミア王在位1378-1419。神聖ローマ王在位1376-1400)の統治の時代に入り、ボヘミアは大きな混乱の時代を迎えます。カレル4世によって優遇された教会は莫大な財産を抱え込み、税金は逃れ、教会で生産したビールも無税、免罪符や地位役職の売買などが横行しているのを見かねたプラハ大学の教授ヤン・フスはわかりやすいチェコ語で説いていった。この時ヴァーツラフ4世も高位聖職者を疎ましく思っており、ヤンフスに同調した。当時ローマ教皇庁は複雑な対立からローマとアヴィニョンに分裂していたが、1414年神聖ローマ皇帝ジムクンド(カレル4世の息子でヴァーツラフ4世の異母兄弟)はコンスタンツ公会議を開催して、ローマ教皇庁の再統一を果たしたのである。しかし彼はこの後の処置を誤った。ボヘミア国民に人望があったヤン・フスをこの会議に召集し、持論の撤回を拒否したため火刑に処してしまったのである。1419年にヴァーツラフ4世の死後、ボヘミア国王になったジムクンドに対し、フスを支持していた貴族たちが立ち上がりフス派戦争が始まります。ボヘミア軍は何度もフス派にいどむが、フス派はジシュカなどすぐれた指揮官により全て敗退、1436年に和解が成立するまでフス派戦争は続いた。


チェコの歴史6 ハプスブルグ家の支配:ハプスブルク家(神聖ローマ帝国)のフェルディナント1世が、1526年にボヘミア国王になる。彼は同年ハンガリ−の国王に選出され、オ−ストリア・ボヘミア・ハンガリ−の三ヶ国を核とする、いわゆる「ハプスブルク帝国」が成立した。その頃、神聖ロ−マ帝国諸邦は、ルタ−(1483-1546)の「95箇条の論題」に始まる宗教改革の波に揺れていた。免罪符の販売や聖職者の批判を展開したルタ−は、自分の教えはフスの教義と同じだとしてフスを公然と弁護したので、フス派運動は新たな展開を見せることになる。 1547年、プラハを始めとするボヘミアの各都市は、ドイツのプロテスタント諸侯軍に呼応して皇帝に反乱を起こした。しかし皇帝軍は反乱軍を粉砕し、敗れた各都市は自治の特権を奪われた。
これ以後、ハプスブルク家はボヘミアの再カトリック化を図った。大きな役割を担ったのはイエズス会である。一方で、ボヘミアにはハプスブルク家によりルネッサンス文化が導入された。またルドルフ二世は宮廷をウィ−ンからプラハに移し、芸術家や文化人を優遇したので、プラハは学芸の都として華開いた。ルドルフ二世は謎めいた王であった。彼は学芸を愛するとともに魔術や練金術にも大きな興味を持ち、その宮廷には怪しげな魔術師まで出入りしたという。


         

入り口の真上の装飾、
19世紀のものでしょうか

ヴィート大聖堂の中です。

ステンドグラスの中でもひときわ
美しく素晴らしいものだと思っていたら、
帰国してガイドブックを見てびっくり。
Mucha(ミュシャ)の作品で、
聖キリルと聖メトディウス』でした。
キリルとメトディウスはギリシア出身の
兄弟で,863年頃ボヘミアへやってきて
キリスト教を伝え,プシェミスル王家の
人々に洗礼を施した聖者だということです。
下は拡大したものです。
他のとあまりに違います。

パイプオルガンです。

教会がカトリックかプロテスタントか
見分ける方法は?と聞かれたら、
「懺悔室」があるのがカトリック
と答えればいいうです。

 

ハプスブルク家のフェルディナント1世
(ボヘミア王在位1526-64)夫妻と
息子のマクシミリアン2世(ボヘミア
王在位1564-76)が祀られているとのこと

 

プラハ錠からカレル橋の図です。

広々した通路

祭壇内に彫像が、、

ミュシャのを見ると比較してしまいますね。

 

2トンの銀でできた
聖ネポムスキーの墓碑です。
ヤン・ネポムツキーは,南ボヘミアに生まれ,
カレル4世の息子ヴァーツラフ4世(ボヘミア
王在位1378-1419)の時代,宮廷の司祭と
なった人物で,王妃の不貞を疑い、王妃の
懺悔の内容を王に明かさなかったため,
王の怒りをかい,カレル橋で処刑され、
ヴルタヴァ川に投げ込まれたとされている。

ハプスブルグの時代で、フス派に対抗するため
カトリックの英雄として仕立てられたからのようです。

ヴァーツラフ礼拝堂の入り口

 

 

 

チェコ王冠連邦の諸侯たちの
家紋?です。

聖ヴァーツラフ礼拝堂です。
聖ヴァーツラフ(=ヴァーツラフ1世)の遺骨と
王冠が納められている神聖な空間です。
内部は綺麗な壁画などで装飾されており
外からしか見ることはできません。

上の壁画の下の部分です。

 

 

 

旧王宮。この建物が実際に歴代の王宮として使われていたのは16世紀まで。つまり、フェルディナント2世が宮殿をウィーンに移すまで、というわけですなのヴラディスラフホール、完成当時はヨーロッパ最大のホールでした。騎士の馬上競技や戴冠式といった国際的行事の際に利用され、1934年からはここで大統領選挙が行われています。30年戦争の開幕として1618年、チェコ貴族が王の側近を突き落としたとされる窓は残念ながらどれだかわからず。

空の色ががらった変わりますが、
実はこれは夕方撮った写真です。
午後の自由行動の時に国立
美術館に行こうと、もう一度ここまで
やってきたのです。

後側の時計台を見上げていきます。

上の部分です。

 

王室議会の会議場。

ここで王に相談し最終結果が出されて
いました。玉座にはチェコのシンボル
であるライオンの紋章が見えます。

 

下に振ります。

朝の写真です。
時間のせいもあるけど、
ホワイトバランスを室内用のまま
撮っていたためでしょう。。

ガーゴイルはゴチック建築の
建物によくいますが雨を遠くに
落とすためのもので、ガーゴイルは
水がぐるぐるいう音から
来ているそうです。

60へぇくらい?