ザルツブルグ、ウイーン、プラハ旅日記

2006 Apr 29〜May 7

7日目 May5 プラハ 4 旧市街

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プラハを今日は1日堪能します。最初にプラハ城に行きます。

チェコの歴史8 19世紀のチェコ:1867年オーストリア=ハンガリー2重帝国ができる。オーストリアは、チェコ・ハンガリーはじめ中欧を手中におさめ、多民族国家になってましたが、 民族独立運動がはげしくなってきて、おさえるためにハンガリーだけ優遇。
1880年「ターフェの言語令」が出る。ボヘミア・モラビアに住む人たちにもドイツ語をしゃべるようにとおふれがでる。
おかげでチェコ語は家庭で使う言葉とされ、日陰のみちを歩む。

チェコの歴史9 チェコスロバキア第一共和国:1914年、 第一次世界大戦が始まる。チェコ人とスロバキア人のハーフであるマサリクが西欧へ亡命して、チェコの独立運動をする。1918年、 第一次世界大戦が終わって、チェコスロバキアが独立宣言をする。1920年にチェコスロバキア共和国が成立。みんなウキウキでしたがそれも長くは続きません。

チェコの歴史10 ドイツに併合: 1930年代末からおとなりドイツでナチスが台頭してきますが、勝手に「チェコはおれのもの」と言い出したドイツに対して 1938年のミュンヘン会談で英仏が「それでいいよー」と言ってしまう(当事者チェコは呼ばれず)。 チェコスロバキア崩壊。 1939年、チェコはドイツの保護領に(もはや国じゃない)。

 

         

ティーン教会と、その手前にあるのは
ティーン学校。

美しいゴチック様式です。

聖ミクラーシュ教会

正面から見ると実はもっと綺麗だった。
バロック式のファザードが美しいです。

ヤン・フス像

1915年に建てられました。

旧市庁舎です。建物の左側に
天文時計がありまさす。
 
 

 

11世紀に旧市街の入り口として建て られた質素な門を、1475年に、ヤゲロ王朝のヴラジスラフ2世を讃えて、隣接する当時の宮殿と釣り合う立派なゴシック様式の門に再建設。しかし宮殿がプラハ城に移り、門は意義を失い、1757年にはプラハはロシアに包囲され、塔が戦闘用の火薬庫とされたことから火薬塔と呼ばれ、1886年に改築され現在の姿となった

 
 

ミュシャ博物館に行きました。アルフォンス・ミュシャは1860-1939、ミュシャというのはフランス語、チェコ語ではムハといいます。

ジスモンダで一躍有名になったミュシャはパリを中心に活躍します。この作品は「黄道十二宮」という1896年の作品です。「夢想」とともに人気の高い「黄道十二宮」は最初はシャンプノワ・リトグラフ工房のカレンダーとして作られました。 このカレンダーに注目した「ラ・プリュム」誌の編集長レオン・デシャンがすぐに買いとって「ラ・プリュム」誌のカレンダーとして広め、大好評を博しました。

ヒヤシンス姫のポスター。

『ヒヤシンス姫』はラディスラフ・ノヴァクの脚本、オスカー・ネドバルの作曲によるバレー・パントマイムで、ポスターのモデルになったのはチェコの人気女優であったアンドラ・セドラコヴァである。寒色系を主体とした色彩を背景に浮き上がるヒヤシンス姫は、スラブ風の衣装をつけ、頭飾りからイヤリング、ネックレス、服の裾の縁取りに至るまで、ヒヤシンスの花のモティーフで飾り立てられている。

 
 
 

博物館を出てお食事をしました。

 

 

チェコのお菓子?買ってみました。甘い。

芸術家の家(通称ルドルフィルム)

「プラハの春」音楽祭のメイン会場、
ドヴォジャークホールなどのコンサ
ートホールやギャラリーがある。
現在プラハ交響楽団の本拠地でも
あります。

ヴァルダバ川からプラハ城を

ペストの円柱

18世紀初頭にプラハで流行した
ペストの終焉を記念して建てられた。

聖ミクラーシュ教会

13世紀にゴシック様式で最初は建てられ、18世紀に現在のバロック様式になった。モーツアルトはこの教会でオルガンで演奏したことがあり、モーツアルトが死去した時には世界に先駆けて追悼ミサがこの教会で行なわれた。